2012年5月19日土曜日

説明のない苦しみは地獄



 シャーマニズムと聞けば、クリスチャンなら厭うべき迷信じみた異教というイメージを持つかと思います。あるいは、悪霊信仰とか。あるいは偶像礼拝とか。それはそれでいいんですが、さて、なぜシャーマニズムは、あらゆる時代に、あらゆる地域で見出されるのでしょうか。なぜこんなに普遍的なのでしょうか。人間は堕落しているからだとか、神の栄光は被造物に現れているのに無視しているからだとか・・・? まぁ、それはそれでいいんですが、シャーマニズムが存在する十分な理由もあるのではないでしょうか。シャーマニズムを好意的に考えているわけではないですが、長澤流に、シャーマニズムの起源について切り込んでみたいと思います。

 ティリッヒという人が、不安には大きく分けて3種類あると言っ� ��います。運命の不安、無意味の不安、罪責の不安。この3つは、お互いに浸透しているそうです。運命の不安とは、人生が偶発的なものに支配される不安です。つまり発生する必然性がない出来事が、降りかかるかもしれないという不安です。そしてわたしたち人間は、そういう運命に対して無力であるという自覚が不安を生みます。最近日本で起きていますが、歩道を歩いていたら突然乗用車が突っ込んできたとか。自分は何も車と衝突する行動はしていないのに、偶然その場に車が突っ込んで死ぬ。自分に過失がなくても、車が突っ込んできたら死ななければならないわけです。輸血してもらったら、偶然HIVに感染した輸血剤だったとか。災難は降りかかってくるのです。自分が選んだわけでもないのに。自分が、自分の運命を� �全に支配できない不安。これは人間ならばだれでも意識している不安です。それは今日自分の身に降りかかるかもしれない、明日かもしれない。だれもその可能性を完全には否定できません。

 しかし災難が自分に降りかかることだけが運命の不安ではありません。ここで運命の不安は、無意味の不安と結びつきます。運命の不安が耐え難くなるのは、災難が「たまたま」降りかかるからです。つまり降りかかった災難に必然的な理由がないから、「偶然」やってくるからです。


減量ジュース断食

 ニーチェという人は、「苦しみそのものが問題であったのではない。むしろ『何のために苦しむか』という問いの叫びに対する答えの欠如していたことが問題であった。人間は苦しみそのものを拒否したりしない。彼はそれを欲する、彼はそれを求めさえもする。もしその意義が、苦しみの目的が示されるとすればだ。これまで人類の上に蔓延していた呪詛は苦しみの無意義ということであって、苦しみそのものではなかった」と書いています。私たちは、災難に会っても、十分な理由があれば、それに耐えることができます。自分の過失がハッキリしている場合がそれです。自分が横断歩道もないのに酔っ払って道を横切って車に轢かれても、「あんな交通量の多い道路で、� �を横切ったら当然車に轢かれるよな・・」と思えれば、少しはしょうがないという気にもなれます。どんな災難であれ、それが起こるべくして起こったという必然性の説明があれば、災難も少しは耐えがたくなるのです。

 ニーチェがいうように、人間にとって本当の苦しみとは、苦しみそのものよりも、その苦しみに何の意味も見出せないことなのです。苦しみに意味があれば、ニーチェのいうように、人間は苦しみを拒否しません。子供の代わりに自分が人質になりたいと申し出る親はたくさんいますし、人食い人種のいるジャングルの奥地に行った宣教師も、苦労を覚悟で赴いたわけです。苦労に値する理由さえあれば、あえて苦労を買って出るというが人間です。ある場合には、苦しみに何の理由も見出せないこと、苦し みの無意味性こそが、人類が何を代価に払ってでも避けたい恐怖でした。


痛みは最後の永遠に一時的な誇りです。

 さて、シャーマニズムの起源とは何か。わたしの見解では、シャーマニズムは、降りかかった災難の無意味性に、『意味』を与えた瞬間、誕生しました。そもそもシャーマニズムは、人間がまだ自然の脅威に翻弄されていた時代に栄えました。ある日、洪水が家財すべてを奪った、旱魃が収穫を奪った、病気が息子の命を奪った、人間に襲いかかるこういう災難の意味を尋ねもとめたとき、シャーマニズムは誕生したと思います。30年間蓄えた家財、一年間辛抱した収穫、20年間愛をこめて育てた息子、こういうかけがえのない犠牲が、何の理由もなく、たまたま偶発的に何の意味もなく起こったとすれば、だれが耐えるでしょうか。ナチスドイツの 強制収容所を生き延びた心理学者フランクルが名著『夜と霧』に記していますが、強制収容所のような極限状態を生き延びることができた人は、生き延びる意味を見出した人たちでした。予期しない災害や疫病で苦しむ古代人が、シャーマンを訪れたとしましょう。その人がまず知りたいのは、「なぜ」こういう不幸が、他でもない「私」に降りかかったのかということです。苦しみの意味を知りたいと願うということは、もしかしたら何の理由も意味もなく偶発的に起きたのかという不安があるからです。そこでシャーマンが、「あなた方の祭りの仕方が悪いから、山の神さまがご立腹じゃ」とご神託を告げると、「なるほど」と腑に落ちるわけです。理屈がもっともだから納得するのではなくて、とにかく理屈が与えられているから納� ��するのです。人間にとって一番辛いのは、何の理由も意味も原因も見出せないことですから。

 最近、日本では幼児殺人が起こっていますが、被害者の両親は「なぜこういう事件が起こったのか解明してほしい」という声明を出します。動機の解明が重視される1つの理由は、「なぜ?」という疑問になんの答えも見出されない場合、運命の無意味さに人間が耐えられないことです。もちろん、動機が分かっても被害者の家族の心は癒えません。しかし、何も無いよりはましなのです。しかし、精神科医による動機の解明による現代の「理由探索」は、シャーマニズムと比べると、わたしの意見では100倍も劣っています。


減量のための動機引用

 たとえば、精神障害に苦しむ患者が診察に行ったとしましょう。精神分析医が患者の症状を分類するのに参照するDSM(精神疾患の診断・統計マニュアル)をペラペラめくりながら、「あなたはリビドーの転移不全による境界性人格障害ですね」と言ったとしても、症状に苦しむ患者は「・・???、先生・・・、何ですかそれ?」と訳のわからない抽象的な用語を聞いてよけい不安になるのではないでしょうか。それよりも「あなたはお稲荷さんの霊に憑依されてていますね」とシャーマンに言われるほうが、「なるほど、子どもの頃、近所の稲荷神社によく小便ひっかけたなぁ」とウンウン納得し、「お払いとお布施をすれば除霊できるかもしれない」と希望もわい� ��くるもんでしょう。ところが境界性人格障害といわれても、何が原因で、どうすれば治るのか、全く見当もつきません。

 「犯人は心的外傷後ストレス障害の悪化による自己愛性人格障害のため心神喪失状態にあり、犯行に及んだ」などと訳のわからない説明を与えられる無差別殺人の被害者の遺族よりも、「犬神村の大神・邪悪タケルノミコトの祟りじゃ〜!」というシャーマンの説明を聞いた古代人の方が、「なるほど・・・。恐ろしや〜」と、少なくとも納得はできたのではないでしょうか(辛いにしても)。私は、一時期日本のキリスト教界でも流行った「地域の霊」とは、こういう説明機能を担ったから支持を集めたと考えています。

 想像してみてください。「犯人は心神喪失状態で現実を的確に判断でき� �殺人に至った」と警察に言われるのと、「被害者の父親が、祖先を軽んじたので祖先の霊が復讐した」とシャーマンに言われるのと、どちらが耐えやすいか。後者の場合、祖先を軽んじたとされる父親は、罪責感に一生苦しむかもしれません。しかし、罪責のあるところには、意味もまたあるのです。意味なしに罪責はありえません(無意味な罪責は不可能です)。被害者の父親は、罪責を背負うことになりますが、その代わりに子どもの死の「必然性」を信じることができます。しかし対照的に前者の説明は、出来事の偶発性と無意味性だけが際立ちます。


 水害で田畑を失った農家を想像してみましょう。「インド洋の低気圧が発達して、西日本を通過したので水害になって損害が生じた」と気象観測官に言われるのと、「あなたは、先祖の供養が足りないから損害をこうむった」とシャーマンに言われるのとでは、どちらが耐えやすいか。後者の場合は責任の所在がハッキリしていて、損害の必然性が明白になり、先祖の供養さえすれば災害を避けることができるという希望を与えてくれます。対照的に前者は、災害の偶発性だけが明らかで、自然に対する人間の無力感だけを増大させないでしょうか。科学は自身の力でシャーマニズムの迷信を撃退したと自惚れているようですが、災難の意義を納得させる力においては、科学的説明は幼稚園� ��並みの未熟さです。

 科学もシャーマニズムも「必然性」を納得させる方法とわたしは理解しています。人間にとって、降りかかった災難が必然的であること、つまり避けようと思っても避けることができない運命だったと信じれることこそが、最高の慰めだからです。アラブ人も「アラーの思し召し」というではないですか。専門家にしかわからない科学的な化学式や力学で説明されるよりも、「家の方角が悪い」とか、「先祖の供養が悪い」とシャーマンに言われるほうが、100倍納得しやすいのです。

 ここであえてシャーマニズム弁護論をさせていただければ、シャーマニズムとは偶発的災難、つまり一見無意味に降りかかったと思われる災難に意味を与える仕事です。こうやってシャーマンは災難が降りか� �った被害者に因果関係的説明を与えて、それが必然的であったこと、すなわち意味があることを教えて、無意味の絶望から人類を救ってきたわけです。人間が人間であるかぎり無意味な苦しみに耐えることはできません。人間は「意味」がある場合のみ、生きることができるそういう種類の生物なのです。

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